スニーカーブランド連載企画①「ナイキとオニツカタイガーの知られざる関係」

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「ブランドに秘められたストーリーを知ることで、さらにスニーカーを楽しめるのではないか?」という発想で、スニーカーブランドの背景に隠された知られざる歴史やストーリーを紹介していきます。今回は「ナイキとオニツカタイガーの知られざる因縁」についてのストーリーを紹介していきます。

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学生時代から日本のスポーツシューズに可能性を感じていたナイキ創業者

ナイキ創業者のフィル・ナイト氏は、オレゴン大学時代には陸上選手として活躍していました。のちにスポーツ界を牛耳る男は根っからのアスリートだったのです。<写真右>

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その後、陸軍への参加を経て名門スタンフォード大のビジネススクールに進学しますが、自分の精通することでビジネスプランを練るという課題において「日本のスポーツシューズは、カメラ分野と同じくドイツ勢に迫り勝てるのか?」といったテーマの論文を書いたことが知られています。

当初から日本の技術力の高さや(当時の)製造コストの低さに注目し、日本のスポーツシューズが世界に通用する可能性を感じていたのです。

オニツカタイガーとナイキ、創業者の出会い

オニツカタイガー(現・アシックス)の創始者である鬼塚喜八郎氏とナイキ創始者のフィル・ナイト氏が出会うのは1962年11月。卒業旅行で日本の神戸に立ち寄ったフィル・ナイト氏はオニツカタイガーシューズの高性能と低価格に感激し、すぐさまオニツカ社に連絡。鬼塚喜八郎氏と直接面会し、米国西部での販売代理店契約が即座に決定したといいます。

<鬼塚喜八郎氏(1953年)>766355ab295bb8531f8aaf0abc8923df

鬼塚喜八郎氏はのちに語っています「裸一貫で事業を始めたいとの彼の心意気に創業当時にリュックをかついで全国を歩いた自分の姿が重なり、この若者に思い切って販売店をやらせてみることにした。(日経新聞「私の履歴書」より)」と。その当時、鬼塚氏は44歳、ナイト氏は24歳。海外進出という合理的な理由よりも「勢いのある若者の可能性を信じたい」という心意気で決断を下したのではないでしょうか。

ナイキ創業者フィル・ナイト氏の苦闘

アメリカに帰国後、オレゴン大学時代の陸上コーチであり指導だけではなくシューズの改善にも余念のなかったビル・バウワーマンとともに1964年2月にBRS(ブルーリボンスポーツ)社を設立。

<ビル・バウワーマン氏>

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当初、店舗は持たず車の後部座席に靴を積み込んでで各地をまわりながら営業していた上、BRS社の売り上げでは食いつなぐことができず、フィル・ナイト氏はポートランド州立大学で会計を教えたり会計士をしながら生計をたてていたといいます。

ナイキオニツカタイガー販売代理店Nike History Timeline

1966年にはサンタモニカに一号店をオープン、そしてようやく努力が結実して1969年にはBRS社の事業に専念できるまで成長します。またこの過程において、一般的な代理店とメーカーの枠組みを超え、BRS社がアメリカ人にウケる機能性やデザインをオニツカ社に提案しオニツカ社が製品に反映するという密接な連携をとっていました。特にコーチ時代からシューズの研究を重ねてきたバウワーマンは積極的に製品に対する指摘を行っていたそうです。このような良好な関係性がのちの争いにつながるとは両社ともに予想していなかったはずです。

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オニツカとの提携を解消、自社ブランド展開へ

フィル・ナイト氏とビル・バウワーマン氏はさらなる成功と理想のシューズ開発を目指して自社ブランドシューズの展開を準備していきます。そしてついにオニツカとの契約解消後、福岡のアサヒコーポレーション(ブリヂストンの源流)にトレーニングシューズを製造委託。1971年には、自社ブランド「NIKE」の象徴スウッシュの入ったシューズを発売します。

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その後、両社が提携中にビル・バウワーマンのアイデアで開発された人気スニーカー「コルテッツ」のデザインおよび名称の使用権について両社が対立。BRS社がオニツカ社を提訴するという事態にまで発展。結局、弁護士費用と和解金あわせて1億数千万円をオニツカ社が支払った上、名称をタイガーコルテッツからタイガーコルセオに変更するということで和解。

<左:ナイキコルテッツ / 右:タイガーコルテッツ>

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鬼塚喜八郎氏は、のちに日経新聞「私の履歴書」において
「BRS社と販売会社設立の計画を進めていたところ、日本の商社の勧誘で他のメーカーからの仕入れに切り替えてしまった。驚いた私はすぐに別の販売店と契約したが、日本の商慣習になじまないそのドライな行動に裏切られた気がしたものだ。」
「まずいことにBRS社が使っていたニックネームを引き続き使ったため、その使用権の帰属をめぐって対立、訴訟を起こされた。結局和解に応じたが、和解金額は弁護士費用を含め1億数千万円。海外展開するうえで良い経験だったとはいえ、高い授業料を払わされた。これが後に急成長したナイキである。」と語りました。おそらく言葉にした以上の想いを抱えていたのではないでしょうか。

今や世界No. 1スポーツブランドとして君臨するナイキと、アディダスに次ぐ世界No.3の座を狙える地位まで上り詰め躍進著しいアシックス。競争の激しいスポーツブランドひしめく中、過去に争いがあったのは事実。しかしアディダスやプーマといったドイツ勢の牙城を崩した両ブランドの偉大な創業者が黎明期に出会い、一時代を築き上げてきたという事実はぜひおさえておきたいものです。

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