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アルファ インダストリーズと密接に関係する「MA-1」の歴史
ジェット機の高度に耐えられるジャケットとして1940年代に誕生
1940年、アメリカ軍パイロットが身につけていたのはフリースで裏打ちされたレザージャケットだった。陸軍の一部隊だった航空隊(U.S. ARMY AIR FORCE)が解体され、正式にアメリカ空軍(U.S. AIR FORCE)が設立されたこの時代、軍機の主力はプロペラ機からジェット機に。飛行高度が格段に上昇し、結露によって付着した水分が氷結するほどの低温環境でのフライトになったことから、耐水性が低いレザージャケットに替わるものが求められた。そこで注目されたのが、当時はまだパラシュートなど一部にしか採用されていなかったナイロン素材。1944年頃に、MA-1の前身である世界初のナイロン製フライトジャケット「B-15」が誕生した。B-15の襟元にはムートンファーが取り付けられていたが、毛足の長いファーはコックピット内での作業やパラシュート装備の邪魔に。そこでB-15をモディファイし、襟元をリブニットに変更して開発されたのがMA-1である。
アルファのデザインが現在のMA-1の原型に
アルファ インダストリーズの前身であるドブス・インダストリーズは、米国防省から軍用ジャケットの見直しを依頼された1959年から長きにわたってMA-1を米軍へ供給。パイロットが地上での活動でカモフラージュできるセージグリーンカラーを採用し、裏地には遭難時に見つかりやすいようレスキューオレンジを用いるなど、現在のMA-1の原型となるデザインを確立した。ケネディ政権下の1961年、ベトナム戦争へのアメリカ介入が始まると軍需産業が一気に活気づく。戦争が激化するとともにアルファの工場の稼働率も上昇し、従業員数も100名から500名を超えるほどにまで成長。数百、数千という米国兵が東南アジアへと送られるなか、MA-1は陸海空すべてのパイロットに支給された。1970年の初頭、MA-1のデザインに変更が加えられる。もともとナイロンの表地と裏地のあいだにはウール素材が入れられていたが、新たにポリエステル系繊維を使用。これによりさらなる軽量化を実現した。
軍用からファッションアイテムへと変遷
泥沼化したベトナム戦争が1975年に終戦すると、退役軍人たちは戦地で着用していたフライトジャケットを持ち帰ることを許可された。これによりMA-1が軍以外の場でも市民権を獲得することに。アルファは軍への納品完了後、余剰物資を活用するために軍用と同じミルスペックにのっとってジャケットを製造。軍の放出物資店で販売することとなった。軍に実際に出荷されるジャケットと民間で販売されるジャケットを社内的に区別する方法として、タグデザインを分けることを考案。軍に納品されるジャケットのラベルが識別番号と1本の横線なのに対し、放出用ジャケットには3本の黒い横線を用いたのである。1本線のものにはアルファ以外のメーカーによる模倣的なフライトジャケットも紛れていたが、3本線のものはアルファ製のみ。その結果、放出物資店で買い求める人々は3本線の入ったジャケットがとても優れていることに気がつき始める。3本線入りジャケットは、アメリカ軍のパイロットや地上要員が世界各地の米軍基地で着用しているジャケットと全く同じ。当然のように3本線の入ったジャケットが売れていった。
1980年代になると、ベトナム戦争の終戦やロシアとの冷戦の影響によってMA-1の軍事的需要が低下。その一方でファッションアイテムとしての需要が高まったことから、アルファは米軍向けのビジネスから一般市場向けのグローバルブランドへと舵を切る。ブランドロゴは3本線ブームを受け継いだデザインに変更。2000年代に突入するとその流れはより顕著になり、ミリタリーブランドの代表格として認知されていく。現在では50年もの長い歴史を継承した伝統的なMA-1をモダナイズして販売しており、セージグリーン以外のカラーリングやワッペンを施したモデル、特別仕様のレザーモデルなどさまざまなバリエーションを展開。ピッティウオモでも毎回、アルファのMA-1を着用した洒落者たちの姿が一定数以上見受けられることを考えると、ファッションアイテムとして広く普及していることが分かる。