プーマの「スエード」と言えば、50年にわたり世界中で愛用されている名作スニーカー。アッパーにスエード素材を採用した独創性と快適な履き心地で、ストリートファッションにおけるプーマの立ち位置を確立した。今回はプーマを象徴するスニーカー「スエード(SUEDE)」にフォーカスして、その魅力を紹介!
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スポーツとストリートカルチャーで成功を収めるプーマの歴史
ドイツのダスラー兄弟が創業した靴メーカーがすべての始まりだった
プーマの創設者であるルドルフ・ダスラーは、ドイツのヘルツォーゲンアウラハで靴職人の次男として生まれた。ルドルフは1924年、弟のアドルフとともにダスラー兄弟製靴工場を設立。母が使っていた洗濯室でベンチャーを開始した兄弟は、アムステルダムオリンピックで名を売り始める。1936年のベルリンオリンピックではダスラー兄弟の靴を履いたアスリートたちが7つの金メダルと5つの銅メダルを獲得。第二次世界大戦前に年間20万足の靴を販売するほどの企業に成長した。
ダスラー兄弟が決裂し「プーマ」と「アディダス」に
第二次世界大戦中、事業を行うためにはナチスの党員である必要があった。ダスラー兄弟もナチ党に入党していたが、ルドルフの方がやや党に近い立場にあった。二人が敵対していく理由は、政治思想の対立や経営面での意見の食い違い、略奪愛などさまざまな憶測が飛び交っているが、兄弟は1948年4月に袂を分かつこととなった。兄のルドルフは、自身の名前であるルドルフのRuとダスラーのDaを合わせた「ルーダ(Ruda)」という会社を設立。より軽快な響きにするため、1年後には「プーマ(Puma)」と改めた。一方で弟のアドルフは、自身の愛称であるアディ(Adi)と名字の最初の3文字Dasを組み合わせた「アディダス(adidas)」を設立したのである。
アディダスとの競争や低迷を経て、世界を代表するスポーツブランドに
ダスラー兄弟の分裂後、プーマとアディダスは熾烈な競争を繰り広げた。敵対関係はヘルツォーゲンアウラハの町をふた手に分かれさせ、町の人々が他人が履いている靴を確認するため頭を傾けることから「首を曲げた町」という渾名まで付けられることとなる。オリンピックやワールドカップではアスリートの争奪戦が行われ、競争関係は2人の創業者が引退したあとも続いたのだった。プーマはその後、低価格戦略により一時的にブランドイメージが低迷するも、1990年代に復活。ジル・サンダーとのコラボレーションなど、当時では斬新なスポーツメーカーと高級ファッションブランドのコラボレーションなどで注目を集めた。現在ではアスリートはもちろんファッショニスタからも愛用されるブランドとして、魅力的な製品を展開している。
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