
1970年代、ブルース・リー亡き後の香港映画界は、「次のブルース・リー」を探していた。その期待を背負わされた若者のひとりが、Jackie Chan(ジャッキー・チェン)だ。だが彼が選んだのは、偉大なスターの背中を追い続ける道ではなかった。殴られ、転び、逃げ回り、ときには笑われる。それまでのヒーロー像とはまるで違う自分だけのアクションを作り上げ、やがて世界を熱狂させていく。誰かの後継者になることをやめ、「ジャッキー・チェン」という唯一無二の存在になった男の話だ。
スポンサーリンク
ジャッキー・チェンの原点7歳から10年。身体を鍛え、現場で映画を覚えた
1954年、香港に生まれたジャッキーは7歳で中国戯劇学院に入った。そこで約10年間、京劇の舞台に立つためのアクロバット、武術、演技、歌を徹底的に叩き込まれている。[1] 厳しい稽古は早朝から夜まで続き、身体の使い方だけでなく、観客に動きをどう見せるかまで染み込ませる日々だった。学院ではYuen Lau(ユン・ロウ)の芸名を与えられ、Sammo Hung(サモ・ハン)やYuen Biao(ユン・ピョウ)らとともに「七小福」の一員として舞台にも立った。[2]
17歳で学院を出た頃、京劇の人気はすでに衰え始めていた。卒業生たちの新たな仕事場になったのが、成長を続けていた香港映画界だ。ジャッキーもスタントマンとして現場に入り、倒される役、吹き飛ばされる役、危険な動きを任される役を重ねる。そこから俳優、武術指導、アクション演出へと仕事の幅を広げていった。[1]
1973年の『燃えよドラゴン』では、Bruce Lee(ブルース・リー)に倒される端役で出演している。撮影中、リーが振った棒が誤ってジャッキーの頭に強く当たり、本人がすぐに駆け寄ったという逸話を、ジャッキーは後年のイベントで笑いながら振り返った。[3] 当時、スクリーンの中心にいたのはリーであり、ジャッキーはその周囲で身体を張る若いスタントマンにすぎない。それでも、何度も倒されながらカメラの前で動きを覚えた時間が、後のジャッキー映画の土台になっていく。
無敵ではなく、殴られて笑わせるヒーローへブルース・リーの後継者の道を捨てた。『蛇拳』『酔拳』で見つけた自分の武器
1973年にブルース・リーが亡くなると、香港映画界では次の武術スターを求める動きが加速した。ジャッキーも、その候補として売り出された若手のひとりだった。[3] 1976年には、リー主演の『ドラゴン怒りの鉄拳』を引き継ぐ『新精武門』で主役を務める。現在広く知られる「Jackie Chan」の名で初めてトップクレジットされた作品でもあるが、ブルース・リーの人気を受け継ごうとしたこの路線から、すぐに新しいスターが生まれたわけではなかった。[4]
転機は1978年。Yuen Woo-ping(ユエン・ウーピン)監督の『スネーキーモンキー 蛇拳』が成功し、続く『ドランクモンキー 酔拳』もヒットした。両作では、武術とアクロバットにコメディを大胆に組み合わせた。『酔拳』では、後にジャッキーを象徴する爆発的な身体表現とコミカルな間が前面に出ている。[5]
Shown from left: Unidentified, Jackie Chan
ブルース・リーが圧倒的な強さで相手を制するなら、ジャッキーは追い詰められる。殴られれば痛がり、逃げながら反撃し、椅子や机まで武器に変える。完璧なヒーローではなく、必死に切り抜ける姿そのものを面白くした。[6] 自分より大きな存在を追い続けるのではなく、自分の身体能力とコミカルな表現が最も生きる見せ方へ切り替えたのである。
誰かの後継者として期待されることは、若い俳優にとって近道にも見える。だが、その道で勝てないと分かったとき、ジャッキーはブルース・リーに近づく精度を上げなかった。むしろ離れた。強さだけではなく、痛み、失敗、笑いまで自分の武器にする。そこで初めて、「次の誰か」ではないジャッキー・チェンが生まれた。
香港に戻って完成させたジャッキー流最初のハリウッド進出は不発。それでも、自分の映画を捨てなかった
香港でスターになったジャッキーは、今度はアメリカを目指した。1980年の『バトルクリーク・ブロー』、1981年の『キャノンボール』などに出演したものの、思い描いた突破口にはならなかった。香港の現場で慣れ親しんだ、撮影中に動きやギャグを組み替えていく自由も乏しかった。[6]
Jackie Chan
© 1981 20th Century Fox
Studio Publicity Still from “Cannonball Run”
Jackie Chan
© 1981 20th Century Fox
そこで無理にハリウッド仕様へ自分を変えるのではなく、香港へ戻って映画作りに集中する。[1]1983年の『プロジェクトA』では、格闘、追跡劇、アクロバット、フィジカルコメディを、大掛かりなスタントを軸に融合させた。その象徴が時計塔からの落下だ。Harold Lloyd(ハロルド・ロイド)の『要心無用』を思わせる時計の針にぶら下がり、約50フィート下へ落ちる。実行するまでに3日かかったとされる。[7]恐怖心がなかったわけではない。それでも、映画に必要な画を成立させるために飛んだ。
1985年には、自ら監督と主演を務めた『ポリス・ストーリー 香港国際警察』を完成させる。冒頭から、斜面に広がる集落を車で突っ切るチェイス、二階建てバスに傘一本で食らいつくスタントと、香港の街そのものをアクションの舞台へ変えてみせた。[6]
Directed by Jackie Chan
Shown: Jackie Chan
クライマックスのショッピングモールでは、大量のガラスを割りながら戦い、最後には電飾が巻き付いたポールを高所から一気に滑り降りた。この撮影で手のひらは激しく傷つき、着地の衝撃で2つの脊椎骨を折りかけた。[6]
ただし、ジャッキーの凄さを「危険なスタントを本人がやった」で終わらせると、本質を取りこぼす。二階建てバスも、ショッピングモールも、本来はアクションのために用意された舞台ではない。街を走る乗り物や建物、身近な物までアクションの道具に変え、危険な身体表現を映画として成立させた。アメリカで一度つまずいた男は、世界に合わせる代わりに、自分にしか作れない映画をさらに磨き込んだのである。
JC Stunt Teamに見る現場のリーダー像命がけを個人芸で終わらせない。仲間の身体まで背負った
派手なスタントには、当然ながらジャッキー以外の人間も関わる。相手役、スタントマン、撮影スタッフが完璧なタイミングで動かなければ、あれほど複雑なアクションは成立しない。ジャッキーは1976年にJC Stunt Teamを立ち上げた。公式サイトによれば、チームは世代を重ねながら40年以上にわたって活動を続けている。[8]
この投稿をInstagramで見る
2012年にはGuinness World Recordsから「Most stunts by a living actor」の記録認定を受けた。そして、本人が何度骨を折ったか以上に注目したい話がある。『ポリス・ストーリー』の撮影で複数のスタントマンが負傷した後には、自らスタントマンを訓練し、怪我をしたメンバーの医療費も私費で負担した。[9]
自分の身体を危険にさらすだけなら、覚悟は自分ひとりの問題で済む。監督やアクション演出を担う立場になれば、そうはいかない。自分が考えた動きに仲間を参加させる以上、その身体にも責任が生まれる。命知らずなスターから、現場を背負うリーダーへ。長く続くスタントチームの存在は、その変化をよく表している。
ジャッキー映画のエンドクレジットに流れるNG映像も象徴的だ。『キャノンボール』で見たアウトテイクの手法を取り入れ、『ドラゴンロード』以降、多くの作品で失敗したテイクやスタント直後の様子まで観客に見せた。[6] 2016年にアカデミー名誉賞を授与された際、Tom Hanks(トム・ハンクス)もこのスタイルに触れ、身体を張った現実までエンドクレジットで見せるジャッキーを称えた。[10]格好いい瞬間だけを残すのではなく、その裏で転んだ姿まで作品にする。成功も失敗も引き受ける姿勢が、ジャッキー映画の親しみやすさにつながっている。
『レッド・ブロンクス』『ラッシュアワー』、そしてアカデミー名誉賞一度届かなかったアメリカへ、自分のスタイルのまま戻った
1980年代の挑戦では、大きな成功をつかめなかったアメリカ。それでもジャッキーは諦めなかった。違ったのは、次に戻るときには「どういうスターになるべきか」を他人に決めてもらう必要がなくなっていたことだ。1995年に制作された『レッド・ブロンクス』は翌1996年に全米公開され、3000万ドルを超える興行収入を記録した。[2]
1998年の『ラッシュアワー』ではChris Tucker(クリス・タッカー)と組み、ジャッキーのアクションとコメディはアメリカの大衆映画の中心へ入っていく。シリーズは3作へ続き、若い頃に届かなかった市場で自身のスタイルを定着させた。[1]
Directed by Brett Ratner
Shown: Chris Tucker (as Detective James Carter), Jackie Chan (as Chief Inspector Lee)
– Rentals grant one-time, EDITORIAL use only, unless otherwise negotiated. Please inform us about usage or non-usage as soon as possible. Research fees may apply if no images are used. (Photo by Photofest/AFLO) [2343]
2016年11月12日、映画芸術科学アカデミーはジャッキーに名誉賞を授与した。授賞式でトム・ハンクスは、俳優、アクションスター、スタントマン、映画作家を兼ねる稀有な存在として、その創造性と身体表現を称えている。[10]最初に用意された役割は、ブルース・リーの後継者だった。だが半世紀を超える映画人生の先で、ジャッキー・チェンを説明するために誰かの名前を借りる必要はなくなった。殴られ、転び、失敗し、それでも立ち上がる。そこへ笑いを加え、危険なスタントさえ物語に変える。そのやり方自体が、国際的なアクション映画の新しい基準のひとつになった。[6][10]誰かの成功をなぞる方が、近道に見えることはある。ジャッキーは、その道で結果が出なかったとき、自分の持ち味を削らなかった。むしろ、他人には真似できないところまで磨いた。ブルース・リーの後継者の道を捨てた男に、最後に残ったのは、誰かの後継者という肩書きではなく、唯一無二の「ジャッキー・チェン」だった。
この男をもっと知る一冊①「スタントマンから世界的スターになるまでを本人の言葉で追う」『I AM JACKIE CHAN 僕はジャッキー・チェン 初めて語られる香港帝王の素顔』
Jackie Chan(ジャッキー・チェン)とJeff Yang(ジェフ・ヤン)による自伝。中国戯劇学院での修業、スタントマン時代、ブルース・リーとの撮影、香港で自分のスタイルを確立するまでを、本人の視点からたどれる。今回の記事で扱った「次のブルース・リー」から抜け出す過程をさらに深く知るなら、まず手に取りたい一冊だ。
この男をもっと知る一冊②「成功だけでなく、失敗や後悔まで語った後年の回想録」『永遠の少年 ジャッキー・チェン自伝』
ジャッキー・チェンと朱墨による自伝。挫折と成功、命がけの撮影だけでなく、仕事や私生活での失敗、後悔にも踏み込んでいる。完璧な英雄ではなく、欠点を抱えながら長いキャリアを築いた一人の人間としてジャッキーを知るならこちら。若い時期までを中心に振り返る『I AM JACKIE CHAN』と読み比べると、本人の自己認識がどう変わったのかも見えてくる。英語では『Never Grow Up』のタイトルで刊行されており、原著の内容を英語で読みたい人はこちらも選択肢になる。
参考文献
[1] Academy of Motion Picture Arts and Sciences「Jackie Chan」
[2] Hong Kong Film Archive「Hong Kong Filmmakers Search: Jackie Chan」
[3] Academy of Motion Picture Arts and Sciences「An Academy Salute to Jackie Chan」 2013年6月3日
[4] Hong Kong Film Archive「New Fist of Fury」
[5] Hong Kong Film Archive「Drunken Master」 2024年4月20日
[6] The Criterion Collection「Police Story and Police Story 2: Law and Disorder」 2019年4月30日
[7] Film at Lincoln Center「Project A」
[8] Jackie Chan Official Website「JC Stunt Team Information」 2017年5月1日
[9] Guinness World Records「Jackie Chan awarded with two new Guinness World Records titles」 2012年12月5日
[10] Academy of Motion Picture Arts and Sciences「2016 Governors Awards」 2016年11月12日





































